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サイエンスカフェ考 [科学と社会]

 サイエンスカフェについて書いたところ、ジャーナリストのKAYUKAWAさんがコメントを下さった。確かにYahooかなんかで「サイエンスカフェ」と検索すると、このブログがかなり上位に引っかかるようなので、見つかったのも当然かもしれない。いつも思いつきで”とっさに”書き留めている日記なので、思うところの半分もかけていないことが多く恥ずかしいのだが、せっかくなのでサイエンスカフェについて思うところを記しておきたいと思う。

 KAYUKAWAさんがサイエンスカフェのシンポの感想を書かれていたが、そこで取り上げられていた3点(当日出た質問でもある)について考えてみる。そもそもサイエンスカフェとは何なのかという根本的なところとも関わるので、以下に述べるのは、僕があったらいいなぁ、実現したいなぁと思っているサイエンスカフェ像である。
 (なお、シンポジウムではフランス語の「カフェ・シアンティフィーク」を用いていた。これはイギリスで行われているサイエンスカフェがそう呼ばれているからだ。しかし、ある意味ブランドとなっている名称のようなので、僕は「サイエンスカフェ」もしくは「科学カフェ」と呼ぶことにする。きちんと定義するわけではないが、「サイエンスカフェ」を、「カフェ・シアンティフィーク」も含め、科学者と市民との対話・交流型の気軽な小規模集会というくらいの意味で用いている。)

 まず、1点目。大学やカルチャー・センターで行われている啓蒙活動との違いである。サイエンスカフェが目指すのが、「啓蒙」ではない、というのは一つの答えだと思うが、ここで問題にしているのは別のところだろう。大学の公開講座やカルチャーセンターでサイエンスを扱うこともある。従来は、一方向的な講義形式が多かったかもしれないが、”講師”と”受講生”が対等にコミュニケーションでき、サイエンスについて話題にできる気軽な空間が出来上がれば、それはサイエンスカフェなのだろうか。僕の答えは、イエスである。そもそもカフェじゃないし飲み物もないが、そんなのは些細なことだ。カフェという空間もドリンクも、気軽なコミュニケーションの装置に過ぎないからだ。とはいえ、大学やカルチャーセンターでこのような場を構築することは、難しいように思う。その意味で、科学とは程遠い”カフェ”というツールを用いて、新しいサイエンスコミュニケーションの場を作れるかが興味深いところだと思っている。KAYUKAWAさんが例として挙げていたジュンク堂のトークセッションは、本の著者に限られるとはいえ科学者もゲストとして呼ばれている。普段は遠い存在である著者と、読者とが気軽に語り合える場であるならば、サイエンスカフェと本質的に変わらないイベントだと思う。(余談だが、渋谷のBunkamuraでやっているドゥマゴサロン(文学カフェ)もどんな雰囲気なのか、気になっている。)
 次に、特定の科学技術の推進などの意図を持った団体がサイエンスカフェを行うことの評価である。この点に関しては、サイエンスカフェ先進国のイギリスなどの事情を良く知りたいところである。簡単に僕の考えを言うと、PRの一手段としてカフェの形式を取るのは構わないと思う。それは”カフェ”がツールに過ぎないからだ。問題は、主催者と来場者が対等に話せる場を作れるかではないだろうか。推進団体のシンポジウムなんかに行くと、質疑がかみ合わないことがよくある。これは質問に対して、「結論ありき」の受け答えをしているからだ。シンポジウムや講演会の形式だと、どうしても来場者は下位に立ってしまい議論できないどころか、無難に受け流されてコミュニケーションが取れないのである。この点をクリアできれば、どんな団体が主催しようが、サイエンスカフェが出来上がるはずだ。しかし、たいていの団体は「結論ありき」の話しかできないだろうから、僕は無理だと思っている。危惧すべきところは、体裁だけのサイエンスカフェを開いて、それで市民に受け入れれたというアリバイを作ってしまうことである。重要なのは、サイエンスカフェというのは意思決定の場ではないし、ただの”しゃべる場”だということだ。とにかく、サイエンスカフェはまだまだ始まったばかりだ。日本では、サイエンスカフェを名乗るだけで注目されてしまう。タウンミーティングに行って一方的に話を聞かされ、どこがミーティングなんだと思うのと同じように、コミュニケーションのできないサイエンスカフェに行ったら、失望する人も多いと思う。その繰り返しで、いいものだけが残っていくのではないかと思っている。
 3点目。カフェという場所が示すとおり、サイエンスカフェは都市エリート層のものに過ぎないのではないかという指摘。いまだにスターバックスに一人で行けない僕は、この考えに共感できる。まず何人かの人が言っている通り、別にカフェにこだわる必要はないだろう。先にも書いたが”カフェ”というのはコミュニケーション空間を作るツールだからだ。この場合、いつもなら高いであろう敷居を下げるための工夫と言い換えてもいい。カフェが身近でないならば、ほかでやればいいだけだ。場所によって身近に利用する層が変わるのは当然だ。ただ科学への関心・親近感・警戒心などに関係なく、のぞいてもらえるようなところが望ましいと思う。(イギリスで科学居酒屋にしなかったのは、女性に来てもらいたかったからのようだ。)もう一つ僕が思うのは、教養があり文化的素養もあるであろう層(=都市エリート層?)ですら、サイエンスに対して距離感を持っているのではないかということだ。「科学のことは難しいから」「専門的なことは良く分からない」といって、自ら壁を作っているようにすら感じられる”文化人”も気にかかる。その意味で、カフェに集う層をターゲットにするのも間違いではないと思う。もちろん、カフェだけにとどまっていてはならないが。

 それに加え、KAYUKAWAさんが『「人それぞれ」というのは、一見、考え方の多様性を認めているようで、実は、コミュニケーションの停止にほかならない。』と書かれていた。確かにそう思う。「人それぞれ」というのは正しいことだと思うが、これは議論の出発点のはずだ。なぜ、「人それぞれ」を出発点に議論ができないのだろうか。考え方が違うということで、壁を作ってコミュニケーションを止めてしまうのだろうか。NHKの「真剣10代しゃべり場」なんかを見ていると、「人それぞれだし良いんじゃない」「それが個性なんだから」とか、優等生的に話が収束してしまうことがあり、違和感というか気持ち悪さを感じていたのだ。これは若い人に限ったことではない。日曜討論だって報道2001だってそんな場面はあるし、ネット上の言論も朝日vs読売も、そう感じることがある。
 話をサイエンスカフェに戻すと、シンポジウムで議論重視か交流重視かという話題があった。しかし僕には、「交流」と「議論」の違いがよく分からない。基礎科学だって、まだまだ論争になっていることも多いし、素人の疑問をもとに仮説を言い合って議論してもいい。そうやって自分の思うところを、専門家・非専門家を問わず意見を交換し合うのが、「交流」になるのではないだろうか。議論なき交流なんて、ただの仲良しクラブでしょ。そんなのはつまんない。

 ・・・そもそも議論する文化がないのかも。なんていうところで、例のごとく力尽きて今日はここまで。・・・ってゆーか、さっき書き終えたら保存に失敗してたし。書き直しですわ。


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あみん

日本ってあんまり議論する文化がないですよね。もめないことが美点、というか…。
よりよいものを作り上げていく時に議論がないのは問題だけど…。
議論だけでなく、それをうまく発展的にまとめていく能力も必要なのでしょうね。難しいことだけど。

サイエンスカフェって、よく分からないけど、
・一般市民が最先端の科学に触れ、質問したりすることなどで刺激やアイディアをもらう。
・科学者の側は、一般市民との意見交換(?)の中で、同業者・専門・背景知識が似通った人たちからでは得られないアイディア・価値などを見出す。
って言うのが理想な気がします。

その辺で問題になってくるのが…
・背景となる知識のギャップ
が大きいと思いますけど、それを埋めるためにはどのようにしたらいいのでしょうね?
by あみん (2005-05-08 19:24) 

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