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忘年会とかクリスマスとか [日記・雑感]

▼今年初めてセーターを着たら、後輩に「お父さんみたい」と言われました。

▼木曜日は、研究室の忘年会でした。教授の出張のせいで、平日、しかもD論の締め切りの直前という日程でした。この学年になると飲み会でわいわいというよりも、落ち着いたところでゆっくりしゃべる方がいいですね。店の選定の話を後輩としていたら、
「けけみさんは、もっと暗いバーとかがいいんですよね?」
暗いバーって、僕はそんなイメージなんでしょうか。その後、「大人の科学」のプラネタリウムとかからくり人形について熱く語っていたら、
「けけみさんは、いつも家で大人のナントカで遊んでるんですね」
・・・大人のナントカって。

▼金曜日は、渋谷で忘年会兼クリスマス会でした。久しぶりに会う人が多くて、何が何だか分からないまま過ぎてしまいました。毎年、プレゼント交換で本を交換し合うのが恒例になっているのですが、僕がもらったのは「もっと分解マニア!」。小学校低学年?の時には、ステレオを分解しました。ビデオデッキも分解したことがあるような気がします。昨年は、研究室で廃棄されるパソコンのキーボードを分解しました。先月は、安物の時計を分解しました。そんな僕なので、この本がおもしろくておもしろくて、D論が進みません。


ゲラチェック [日記・雑感]

 昨日一日の実験はうまくいかなかったので、ちょっとがっかりしてます。といっても、次の実験に必要な化合物の合成なのでたいしたことはないはずなのですが、うまく目的物が得られなかったので、要するにD論の締め切りまでには間に合わない運びとなったわけです。最終審査の時にはそのデータを入れたいし、卒業までにはそれも含めてまとめたいし、学会発表にも間に合わせたいし、そういないとここ2,3ヶ月の実験(の半分くらい)が報われないことになってしまうのですが、ちょっと試してみたい他の実験に浮気したい気分でいます。
 それはそうと、最近、一般向けの科学の本のゲラをチェックしていたところ、自分で書いておきながら、次々と気になる箇所が出てきました。高校の教科書レベルではこういう説明をしているだろうけれども実際はそうではないとか、物事の理由を単純化しすぎているんではないかとか、要するに「わかりやすさ」と「正確さ」の問題に直面しているわけです。そもそも読者にとっては、厳密な説明よりも、おおよその(そしてできれば実感できるような)解説のほうが望ましいのかもしれません。これをうまく調整するのが、サイエンスインタープリターの役割なのかもしれません。英語の論文を書くのも大変ですが、日本語で一般向けの文章を書くのも大変です。


D論奮闘中 [日記・雑感]

今月末の締め切りに向けて奮闘しております。今進めている実験も付け加えたいのだけれど、締め切りには間に合いそうもないかなと少し弱気です。ともかく、こうしてパソコンに向かってみるわけですが、どうもその英語というのがなかなか書き進まないのですね。「動物のお医者さん」というコミックでたしか菱沼さんが論文書きで英語の壁にぶつかっているというシーンがあって、ちなみに「検証・日本の科学者はなぜ報われないか」という本でも引用されていたのですが、まさにそういう状況なのです。僕の頭の中から出てくる表現があまりにも数が限られているためか、どことなくピントがぼけていたり、やけに冗長だったり、読み返すとなんだこれという代物な訳です。自分の書いている文章に飽きてきたので、ちょっと測定でもするかと、これはまた退屈な測定をしてみました。退屈なことをしていると熱烈に他のことをしたくなるという法則に従えば、退屈な測定をすれば、熱烈に論文を書きたくなり、執筆のペースも上がると考えたわけです。ところが、退屈な測定はどうがんばってみても退屈で、結局のところ、猛烈に眠くなってしまっただけでした。一度眠くなると、思考は停滞するのみで、やっぱりなかなか進まないのです。仕方がないので、生協に行って村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を買ってきました。埴谷雄高の「死霊」でも買ってくれば、それに比べれば僕の書いている文章なんてちょろいもんだぜと思い直すこともできたのかもしれませんが、残念ながら置いてなかったからです。でも読んでいるのは村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」です。やれやれ。


二年目のサイエンスアゴラ [科学コミュニケーション]

▼先週の三連休は、連日お台場に通いつめて、サイエンスアゴラに参加してきた。サイエンスアゴラは、サイエンスコミュニケーションの一大イベント。一回目だった昨年は、とにかく開催したこと、そして関心のある人々を全国から集めたことに意義があったと思うが、二回目となる今年はそれだけじゃいけないだろうと思いつつ、結局三日とも行ってしまった。
▼全体的な印象は、大学や研究機関など、いわゆる科学者側や政府系の団体の参加が増えたということ。そういう団体や人たちを、サイエンスコミュニケーションの場に引き出すのも、このイベントの大きな役割だと思うが、一方で草の根的な活動の掘り起こしにはまだ課題が残る。
▼あと、これが一番残念だったことだが、それぞれの参加者が自分のセッションやブース展示に忙しく、相互の交流がまだ少なかったということ。せっかくの懇親会もいつもの顔ぶれが多く、草の根活動の人や、若い人たちがほとんどいなかった。みんな自分の活動をアピールするだけアピールして、会場を後にしてしまったのである。コミュニケーションの欠如というか、一方向的というか、「欠如モデル」的というか、こういうのを解決しようと科学コミュニケーションの取り組みが始まったはずなのだが、自分たちの中ですらできていないような気がする。
▼そこで、何人かの参加者と話したのだが、来年は出展者が必ず参加する懇親会・交流会を開催してみてはどうだろうか。そして、”偉い”人ばかりが固まらないような工夫をする。草の根の人たちも、文科省やJSTの方々も、学生も、研究者も、毛利さんも、立場など関係なく、科学コミュニケーションについて語り合えるような場を作るのだ。全国からさまざまなサイエンスコミュニケーターが集まっているのだから、アイディアもノウハウもあるだろうし、きっとできるはずだ。そんな「アゴラ」を作れないのなら、社会を相手にしたサイエンスコミュニケーションなんて、夢のまた夢ではないだろうか。
▼全国のサイエンスコミュニケーターの皆さん、さあ立ち上がろう。科学が研究者だけのものではないように、サイエンスコミュニケーションだってすべての人に開かれたものであるはずだ。作られた「アゴラ」という広場に受身的に集うのではなく、一緒にアゴラをつくっていきませんか。

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そんなの関係ねぇ? [日記・雑感]

しばらく前の日曜日の朝、ベランダで洗濯物を干していたら、近所の家からこんな声が聞こえてきた。

「だってもかってもねぇっ!」

どうやらお父さんが、言い訳をする子供を叱りつけているようだ。

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博士中間報告会終了 [日記・雑感]

▼昨日、どうにかこうにかD論の中間報告会を終えました。終わった後で助教さんに「質疑応答が楽しそうだったね」といわれました。別に楽しんでいたわけではないのですが、一方的に話すプレゼンテーションよりは、質疑のほうが気が楽なんですね。うまく答えられたがどうかは別にしても、いろいろな示唆が得られてよかったです。弱いところはきちんと指摘されましたし、今後の参考にしたいです。
▼自分の発表を終えてからは、共同研究先の研究員(中国人)とうちのポスドク(ドイツ人)と3人で、新しく始める研究のディスカッション。いろいろアイディアが出てきたので、うまくいけばきっと面白いことができそう。ただ競争相手も多そうなので、方向性はもっとつめないといけないかも。それより、英語でもっと議論できるようにしなくてはなぁ。
▼夜は研究室の人たちが、打ち上げ会を開いてくれました。といってもただの飲み会ですが、最近は飲み会を欠席することが多かったので、ひさびさでした。
▼あとはD論の執筆です。中間報告の準備で中断していた実験も再開しなければ。よくないと思いつつも、中途半端で放置していたものもあるので。


いつの間にかすっかり秋になっている [日記・雑感]

▼忙しい日々を送っていると、いつの間にか季節が移ろっていることに、はっと驚かされることがある。気づけば秋も深まっている。夏の終わりと秋の始まりの不安定な境界線を、いつのまにか越えてしまったようだ。
▼今週は、いよいよ博士論文の中間報告会。といってもなかなか発表の準備のエンジンがかからない。どうしたものだろうか。明日はがんばろう。
▼昨日、髪を切りに行った。いつもと同じ人に担当してもらって、いろいろと話をした。大学院で研究しているという話は何度もしたことがあったので、「よくそんなに研究することがありますね」。確かに、何年も「研究している」と言っていると、そろそろ研究することがなくなっちゃうじゃないかと思われてもおかしくないのかも。
「すると、”博士”になるんですね」
「まあ、うまくいけば」
「じゃあ卒業したら教授になるんですか」
「い、いや・・・・」
確かに、「博士」っていって普通思い浮かべるのは、御茶ノ水博士と水道橋博士(?)くらいだろうか。「すぐ、教授にはなれないんですよ・・・」と僕。どういうところに就職するものなのかと聞かれて、なかなかポストを見つけるのは難しくて、ポスドクという研究員を・・・と話しかけたら、
「つまり正社員になるのはなかなか難しくて、アルバイトから始めて、うまくいったら正社員にという感じなんですね」
「ま、まあ」
▼こんな時期から、共同研究を始めることになった。いい機会なので勉強して議論したいのだが、博士論文を抱えていると割ける時間があまりないのが残念。教授と話した感じだと、どんどん提案して進めて行ってよさそうな雰囲気なので、もう一人自分がほしいくらいだ。
▼ついでに、共同執筆している本のゲラが届いた。書き直さなければならない箇所がいくつかあって、さてこれもいつ片付けようか。締め切りは、D論より早い。
▼そういえば投稿論文も書かねばなあ。中間報告会を終えてから書く予定だったのだが、急に教授にせっつかれてしまった。
▼しかも、こういう時に限って、新しい実験のアイディアを思いついちゃったりする。でもそこまで実験する暇がない・・・。


ノーベル化学賞・専門家のコメントは? [日記・雑感]

 昨日、ノーベル化学賞の発表があった。日本人でないのでそこまで大きくは報道されていないが、各紙の報道の様子を比較してみたい。プレスリリースそのままの記事であることが多いので、受賞理由などの内容には大差がないが、そのなかで独自取材と思われるのが、専門家のコメントだ。

まずは、朝日新聞

野依良治・理化学研究所理事長は「触媒は生き物みたいなもので、非常に複雑で本当の構造や機能がわかりにくい。触媒金属の表面で起こる化学反応を解明した」と話した。

 ノーベル化学賞受賞者で知名度もある。言っている内容は平凡だが、こういうコメントは記事に箔をつけるようなところがあるから、有名であるほど、そして大物であるほどよい。野依先生クラスになるとどんな分野だろうと、コメントを求められるのかもしれない。

次に、毎日新聞

川合真紀・東京大教授(表面化学)の話 エルトゥル氏は化学反応だけでなく、固体表面の原子構造や電子状態を物理的にもきっちり解明し、触媒の探索などの応用につなげた。社会への寄与も大きく、学会では毎年、ノーベル賞の呼び声が高かった。若い研究者の教育にも熱心で、会った人みんながファンになってしまうような人だ。

 こちらは、野依先生よりは知名度は劣るものの、近い分野の研究者をきちんと見つけてコメントをもらっている。「会った人みんながファンになってしまうような人だ」という、本人を知る人だからこそ分かる受賞者の人となりを引き出しているので成功といえるだろう。

 読売・日経・産経・時事通信・共同通信は、専門家のコメントがなかった。
 
 そのほか、10月10日の誕生日に受賞したという”ちょっといい話”、物理学賞に続き「日本国際賞」の受賞者がノーベル賞を取ったという”日本も捨てたもんじゃないぞ話”が、記事の締めになっている。

 でも、僕が気に入ったノーベル賞関連報道は、静岡新聞。「戸塚氏(富士市出身)受賞ならず ノーベル物理学賞」。きっと記者が戸塚先生の実家やら、同級生やら、取材して回っていたんでしょう。でもそれが記事になるのはすごい。この記者は、戸塚先生以上にがっかりしていたに違いない。

 今日は文学賞の発表。日本人では村上春樹さんの名前ばかりが取りざたされている。そろそろアジアからと去年も言っていた気がするが、今年はアジアそれも日本からとなるのだろうか。


ノーベル化学賞 [日記・雑感]

 今日は、ノーベル化学賞の発表の日だった。毎年のことだが、予想をしてみたりもする。知っている人だったり、自分と近い分野だったりするとうれしいので、誰々はどうだろうとか、でもまだ波及効果はそこまでないしとか、いろいろと考えてみる。いったいどういう基準で選んでいるのかわからないが、化学賞に限っていえば、最近は扱う分野が広がってかつ細分化されているために、化学者なら誰もが知っているというような受賞者はなかなかいない。そこで今年は、分野間のバランスをとっているのではないかとの仮定のもと、どんな研究が受賞するかを予想してみた。
 昨年のコーンバーグ(転写の研究)は分子生物学の領域、一昨年のグラブスらは有機合成化学、2004年、2003年は分子生物学、そして2002年の田中耕一さんらも生命科学への貢献が大きい。2001年、野依先生らは有機合成化学、2000年の白川先生は高分子である。こう見てみると、2000年代に受賞しているのは、有機合成化学(いずれも触媒の開発に対して)と生命科学に深くかかわっているものばかりである。となると、そろそろ無機物を対象にした研究が来るのでは、とここまで予想した。知っている研究者がなかなかいない中、思いついたのが光触媒の藤島先生、あとはカーボンナノチューブの発見の飯島先生だった。
 そして、発表の時間。ちょうどデスクワークをしていたということもあり、ノーベル財団のホームページを何度も読み込みながら確認したところ、・・・・知らない人でした。でも有機化学ではないってところは当たったかな。
 年に一回の、ちょっとした楽しみでした。


つきぬけて天上の紺 曼珠沙華 [日記・雑感]

研究室のある建物のすぐ横に、彼岸花が咲いていた。鮮やか過ぎる紅色に思わず釘付けになった。毎日通っているはずなのに今日の今日まで気づかなかった。曼珠沙華の凛としたたたずまいは、あたかも秋の訪れを主張しているかのようだ。

「つきぬけて天上の紺 曼珠沙華」は山口誓子の句。うまく言ったものである。

小さい秋を見つけた日は、ちょっと心がほがらかになる。


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